ザ本ブログ

読書をメインに。他、雑記などをアップしていきます。

ミシシッピは月まで狂っている [ 駒沢敏器 ]


 何事にも始まりはあるけど、音楽の源流ってどこにあるんですかね。ジャンルにもよると思うのですが、やはり自然の音なのでしょうか。風でそよぐ木々、川のせせらぎや滝の轟音。鳥のさえずりや、獣の雄たけび。誰が始めたのか、どこからが音楽なのか。境界線を引くのは難しいですが、今も聞かれている音楽のルーツを探るのは可能なのかも知れない。本書は著者が、ハワイアンやブルース、アイリッシュ音楽の源流を探る旅を、紀行文の形で著しています。


 自分は音楽の知識にはとんと疎く、ほとんどポップスしか聞きません。あとは軽く部屋でYouTubeで聴けるジャズを流すくらい。そんな自分でも、著者の音楽の源流を探りそれを探し当て、現地で目の前で生演奏をしてもらうエピソードには、とてつもない羨ましさを覚えました。

 

 アイルランドでは、毎晩パブでギネスビールを飲みながら取材をする描写があり、あまりに美味しそうなので、自分も五反田のギネスが売りのパブに行ってしまいました笑。そんなアイルランドの地での音楽探訪の旅は、荒涼とした自然環境と相まって儚くも美しく、現地で不定期に開催される村人達だけの演奏の催しは、アイリッシュ音楽のルーツを感じることはもちろん、音楽とはそもそも何のためにあるのかを思わされた。  

 明確な時間は決められておらず、とある晩に村人たちが小さな公民館のような場所に集まりだす。村人達がギネスを飲み談笑するなか、取り決めもなくバンドによる演奏が始まり、音痴な老婆も歌手顔負けの歌い手も関係なく演奏に参加し、バンドがその声を下支える。ドレスコードはなく、飲食するも談笑するのも構わない場の居心地の良さは商業的な価値とは縁遠く、居ずまいを正して清聴しなくてはならないクラシックコンサートとは異質なものだ。

 

 周到に用意されたコンサートの音楽が素晴らしいのは言うまでもない。ただ洗練されるがあまり、その地で暮らす人々の息遣いのようなものをそぎ落としてきたのではないか。誰のためでもなく開かれる村人たちのささやかな音楽の催しに、その土地が持つ固有のリズムや、その地に住む人々の生活の悲喜こもごもが、静かに息づいているのかも知れない。

 

ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅 (幻冬舎新書) [ 井出明 ]

 日本では2011年の東日本大震災以降から、ダークツーリズムという考え方が、聞かれるようになったと思う。本書はダークツーリズムの研究者である著者が、当概念について手ほどくと共に、自身が各地を巡って、その地の記憶や遺構をダークツーリズムの見方から案内する紀行文の形を取る。


 東日本大震災などの災害の爪痕については、当事者達の忘れたいという気持ちと、記憶を継承して忘れまいという気持ちがせめぎ合う。筆者は極力、現状を保存していくことを推奨している。それは事実として、実際のモノが失われると、文書などで残っていても風化して、忘れ去られている現実を目の当たりにしたからだという。


 北海道の稚内では、1945年の終戦間際にソ連が侵攻してきて、その地の電信所にいた女性職員たちが陥落寸前まで電信を送り続け、「これで最後です、さようなら、さようなら」の電信を最後に、全員が服毒して自決したとの記録があるという。内容だけ見れば、白虎隊やひめゆり部隊に匹敵する悲劇だと思うのだけれど、これも実際の建物などが残されていないせいか、記憶の承継がなされていない。現物があって、人の記憶を刺激し続けることが、保存に当たってはるかに有利なことがうかがい知れる。語りつなぎ、悲劇を繰り返すことを防ぎ、事実を明らかにしていくことが、その地に生きた人の魂に報いること繋がると思う。


 個人としては、東日本大震災の一年後にボランティアで震災跡地の沿岸を訪れたことがある。住宅街があったであろう場所は、土台しか残されておらず、街は原型を留めていなかった。底抜けに天気がいい日で、冬晴れの青空に風が気持ち良く吹きわたり、災禍とのギャップが物悲しかった。被災地へのメッセージが寄せられた国旗が風にたなびいていて、伝言を寄せた人たちの気持ちが純粋なものであったとしても、家も関係性も破壊し尽され、仮設住宅で暮らす被災者達の心情とはかけ離れていることに、軽い気持ちでボランティアに参加した自分と重なる部分があり、居心地の悪さを感じた。


 伊豆大島の台風による土砂崩れや、熱海の盛り土による土砂崩れの現場も訪れたことがある。東日本大震災の東北地域に比すると、災害の威力はいずれも甚大であるものの、局所的であることが印象に残った。直接の被害者にしてみれば、規模の問題ではないだろうが、広範囲に被災し、なおかつ原発の放射能の問題まで抱えた災害に比べると、まだしもケアの余地はあるのだろうか。


 いずれも観光ついでの軽い気持ちでの訪問ではあるが、自分は被災後の地域には、積極的に出かけるようにしている。何か事故があれば宿のキャンセルが相次ぎ、観光地の収益が落ちてしまうことを良く耳にするからだ。被災地の被害状況にもグラデーションがあり、無事な地域の経済まで滞れば、被災地区の復旧にも支障をきたすのではないだろうか。被災地区は神妙な気持ちで訪問し、自然の巨大さやその災禍を防ぐ手立てなどに思いを馳せ、楽しむ所は存分に楽しめばいいのである。自粛の気持ちなど、被災者には届かない。復旧・復興に必要なのは、実践的な支援・資金しかないのだ。

津波の霊たち / リチャード・ロイヤル・パリー

2011.1 以来、定期的に津波やそれにまつわる著書を読んでいる。決して義務的にではなく、本屋やネットで目に止まったら購入する感じ。自分は震災の影響をほぼ受けることなく生活できたが、自国の、自分が訪れたことのある場所で、あれほどの惨劇が起こった事実を、多分ほとんど受け止めることができていないと思う。

 

日本在住の外国人ジャーナリストが、被災者一人ひとりに取材を重ね、少しでも多くの事実を拾い上げること試みた本著。

テレビやネットニュースでは取り上げられない、多くの事実を知るこができた。それは、痛ましいと一言で表すのは憚られるひたすら圧倒的な自然の暴力の事実だった。人一人が抗うなど到底できようもない。なので、 抗うのではなく、避けるためのインフラやシステムを構築するため、何が起きていたかを知り、記録として残す必要がある。

 

避難の不手際で、大勢の子どもが亡くなった大川小学校の真相を知るには、まだまだ時間がかかるだろう。一度は津波に巻き込まれながら生還して、級友を多く亡くしながら、しなやかに生きる少年の姿は心に迫るものがあった。

虚言を重ね、保身を図ろうとする先生は、 きっと生徒を見捨てて逃げたのだろうと思う。子を亡くした親からすると、 殺しても飽き足らない相手だろう。ただ完全な第三者の自分からすると、全ての生あるものを飲み込む黒い水が自分に迫ってきたら、正気でいられるとは到底思えない。

 

生還した人の証言の中で、役場の防災課の人がとりわけ衝撃的だった。二階まで押し寄せた黒い水が室内を完全に満たし、人間は天井に押し付けられる。水が引くと同時に、室内の人間は水と共に窓から投げ出された。その瞬間、隣の窓から放り出される同僚を目撃したという。

瓦礫に捕まって漂流を始めてからが、本当の地獄だった。 冷水に浸かりずぶ濡れで、瓦礫 の上に乗っても、吹雪に体温を奪われる。外海に流されそうになりながらも、運よく陸地に流され、知り合いに救助された。一方で、 同じく窓から投げ出された同僚は溺死でなく山の方に流され、 そこで凍死した。

翌日、生還した男性が役場に行くと、自分が部屋に避難させた人たちの遺体が、瓦礫に引っかかっていたりして一面に散乱していた。辺りにはかすかな音もなく、男性はただ恐怖した。

 

津波の悲惨さについては、枚挙にいとまがない。その中で、 本書には2点、異質な話があった。

 

一つ目は、震災で亡くなったと思われる動物の霊に憑依された男性の話。

東北在住のこの男性は、直接災害の影響は受けなかった。被災地からはそれほど離れてい なかったので、震災後のある日、物見遊山気分で近辺をドライブした。買い物をしてアイスを食べ、 海岸を目指す。津波の到達地点辺りから、景色が現実のものでないような印象を受けた。

その日は何事もなく帰宅した。が、翌日から異変が起きた。

四つん這いになって、よだれを垂れ流し唸りだす。罵詈雑言を言い放つ。 外で泥だらけになって暴れる。暴れている様は、波に揉まれているようだったという。 困り果てた家族が近隣の寺の通大寺に連絡をし、除霊の儀式を行うと、症状はなくなった。住職は、物見遊山に被災地を訪れた男性を叱った。住職曰く、男性は非常に純粋な人だという。それが故、この世ならざるものを引き付けやすかったのだと。

 

二つ目は、30人の霊に憑依された女性の話。 現代人からしてみると、 憑依現象などとはとにかく胡散臭く、 オカルト物の域を出ないと感じる人が多いだろう。

しかし自分は、このエピソードを読んで、死生観が覆った。自分の固定概念を見直さざるを得なかった。

女性は元々憑依体質だったという。物心付く頃から、生きている人間と区別が付かないくらい霊が見えていた。そして常に数人に憑依されていたという。それが精神病なのではな いかと、ずっと悩んできた。

ただ、震災前まではその状態をコントロールできていた。 震災後、一年ほどすると被災地 を巡礼する人が増え、その人たちが霊を街に連れ帰る。すると、女性の身体を乗っ取ろうとする霊が増え、完全に抑えが効かなくなった。女性はそれを “死者が溢れ出す” と表現した。

侵入しようとする霊を拒むのに疲弊した女性は、藁をもつかむ思いで通大寺に助けを求め、そこから10ヵ月に及ぶ除霊の儀式が始まった。

ほとんどの霊は津波での死を受け入れることができていないため、新たな除霊の度に、女性は溺死を追体験しなければならなかった。

年齢も性別も様々だった。震災以外が死因の霊もいた。彼女の憑依を信じざるを得なかったのは、あまりにもバリエーションが多く、その全てが本人しか知りえない状況を霊が語るからだ。

原発からの避難の際に、置き去りにされて餓死した犬の霊の除霊の際は、普通の体格の女性が、大柄な男性数人を吹っ飛ばしたという。 演技や思い込みで、どうなるものではない。 反動で女性が数日寝込んだのも、本人の能力を超えた動きを憑依でさせらている点でリアリティがある。

身勝手な男性の霊に住職が怒ることもあれば、少女の霊を送り出す時には、支える住職夫人が涙した。その全てが、事実としか思えなかった。

自分は人間は死んだらチリになるのだと思っていた。「死んでも終われない」。これって地味にショッキングなことですよね。 成仏する描写では、 自我が途絶えていくものとも思えたが・・。

 

とにかく、事実を追求する姿勢のジャーナリストの著書の中で、 この二つの話は毛色が違っていた。 特に憑依体質の女性については、もっと知りたいと思っていた。

そして、見つけてしまった。 本書の数年後に、別の日本人ジャーナリストが彼女を直接インタビューを行い、一冊の本にしていたのだ。 それについては、また後日述べたいと思う。

星のロミの漫画村事件にも言及 「暴走するネット広告」 / NHK取材班

もうネットを全く見ない日ってなかなかないですよね。ってことは、少なからず毎日目にしているのが、“ネット広告”。

 

yahooのトップページに出てるような、ある種ちゃんとした広告も多くあると思いますが、色々とネットサーフィンしてると、怪しげな広告が表示されることも多々ありますよね。

 

以前だったらエロサイトとか、いかにも怪しげなページに表示されることが多かったと思うんですが、今は普通の例えば個人のブログとかそういった場所にも、色んな広告が掲載されるようになってます。

 

よく目にするのが、ダイエットとか美容の広告ですね。エロほど表示するのにリスクがなく、ジャンルも化粧品からサプリまでと幅広く、引っ掛けやすいんでしょうね。

まあ効果云々はおいといて、“あの芸能人も使っている!”とか語っているのは、違法の可能性が高いですね。

本書によると、芸能人本人の許諾を得ていないものがかなり多いらしいです。

 

なぜそんなことになってしまうのか。多くの広告は自分のHPに掲載するならともかく、代理店などを通して、不特定多数のページに掲載する形になっている。いくつもの下請けを通すうちに、広告主の企業が、どこに自社の広告が掲載されているのかを追跡するのが困難になるらしい。

新聞を越え、今やテレビの広告料を抜き去るのが確実な、ネット広告の世界は、未だシステムの段階では未開発で様々な課題を抱えている。

 

もう一つ興味深かったのは、あらゆるマンガを違法に掲載していた“漫画村”の件。サイト運営者を追跡してアメリカのアリゾナ州から、果てはウクライナのサーバー会社までに行き着く様子を見ると、以下にネットの中での追跡作業が困難か思い知らされる。日本の銀行や大企業も、自社では全く追いきれてないわけですからね。

本書の段階では逮捕されていなかったが、後日漫画村の経営者、星野ロミはフィリピンで捕まってましたよね(偽名じゃなかったことには驚かされたが)。ただ、漫画村の件は違法掲載の問題と同時に、日本がマンガという文化を、週刊誌や単行本以外で、どう収益化し、製作者達の生活を守っていくかという課題を、突きつける形にもなったと思う。

 

こうしたネット犯罪を取り締まるには、ウィザード級ハッカーとかじゃないと無理じゃね?って気がしちゃう。すいません、最近攻殻機動隊を見ているもので笑。

 

介護に携わる方の本を読むと、いつも考えてしまいますよね。自分の親が倒れたら、どうしようって。  『ママを殺した』 / 藤真利子

いつかは誰しも訪れるはずなのに、なぜか考えたくない。自分の親は、自分は大丈夫と思おうとしてしまう。老いという現実から、目を逸らしてしまう。

 

また、老いを残酷たらしめるのは、個々の事情や考え方やその経過が、幾通りもあり、正解と呼べるものが、何一つないということだ。

 

昨今では美魔女などという言葉があり、若さを保つことに血道を注ぐが、果たしてそれは自然なのだろうか。個々の家庭の財政事情で、介護の質は変わってくるだろう。ポックリ死ぬのがラクでいいように思えるが、残された家族は、突然の別れに、何もしてあげられなかった想いに苛まされはしまいか。

 

またはこの本の作者の、藤真利子さんのように、壮絶な介護の果てに、本当はもっと楽に自然に逝かせてあげて良かったのではと、後悔することもあるだろう。

 

正解はない。ただ、備えることで、少しでも互いの納得に近づけていくことは可能ではないだろうか。途中で結論が変わってもいい。しかし、少しでもお互いの考えを知っておくことが、より良い終末を迎える、微かな標になるだろう。