フクシマの正義 / 開沼 博

自分にとって3.11は、フクシマは何なのだろう。

 

あの日、自分は職場にいた。「強めの地震だな」、程度の感想で、自転車通勤なので帰宅も問題なく、計画停電すら当たらなかった。納豆と牛乳(流通が一時的にストップした)が恋しくなったくらいだ。

 

映像には戦慄した。オモチャのように流される家と車。報道には出ないが、濁流に飲まれる人。遺体安置所の光景。忘れられないのが、自分以外の家族が全員流された少女。家族とペットの名前を泣きながら呼んで、廃墟を探し回る。どんな衝撃的な映像より、未だに記憶に突き刺さっている。

 

そして水素爆発を起こす原発

正直言って、ほとんどの首都圏の人間の関心事はこちらだっただろう。自分が“被災者”になるかも知れないから。

その後の報道は周知の通りだ。自粛に始まり、東電や御用学者が叩かれ、原発のあり方や放射能の影響の是非を巡り、世論は二分された。その中に、現地で生活する人の思いや姿はどれだけ投影されていただろう。そして今、“フクシマ”は風化しつつある。

 

かつて原子力は夢のエネルギーだった(ドラえもんやアトムも原子力駆動)。原発安全神話を打ち立て、推奨したのは国だ。本著は原発を誘致したこと自体、すでに地方の過疎化を危惧した、街の必死の打開策であったことを暴き出す。そこに住む人は、果たして原発の“恩恵”を受けていたのだろうか。誘致の意思決定に関わったのならともかく、ほとんどの人はただ暮らしていただけだ。原発は雇用をもたらした。周辺の飲食店を含め、生活における全ての雇用を。雇用先があれば働くのは当然で、働き口を求め東京を目指すことと何ら変わりはない。原発の側で働いていたとしても、それが原発を推進することになるはずもない。電力による“恩恵”を受けていたのは、むしろ首都圏だろう。

 

そんな東京で行われる、“脱原発デモ”。デモ自体が悪いわけではない。ただ、フクシマには汚染地域に指定された帰宅困難者もいれば、未だに原発で、その周辺で働く人もいる。地震の前から原発の取材を続ける著者は、首都圏で行われるデモや議論に白けた目線を向ける地元の声を拾い上げる。そして結局フクシマも、知識人達の議論のネタとして消費されてしまうことに警鐘を鳴らしている。

 

後半の対談では、水俣の公害や沖縄の基地問題も、原発と同じ、“中央と地方のいびつな関係”、がもたらしたものと捉える。はては映画、『ダーウィンの悪夢』も舞台は違えど、同じ構造だとする。

 

本著は原発を推進も否定もしない。ただ、国策を論ずる以前に、現状にいたる経緯や、今そこで暮らす人の視点を念頭に置くべきだとする。原発を否定し、仮に他のものに置き換えられたとしても、中央の視点から論じるだけでは、原発がなくなるだけで、また同じ構造が維持される。まずは、現場を見て現状を知る。ジャーナリズムとしては当たり前にも思えるが、これがなされて来なかったことが、他人事にしか見えない現在の報道を物語っているのだろう。