ザ本ブログ

読書をメインに。他、雑記などをアップしていきます。

これが韓国の女性差別の現実なのか 『82年生まれ、キム・ジヨン』 / チョ・ナムジュ

 韓国社会の男尊女卑文化を、これでもかと紹介している。韓流も、日韓の政治的なしがらみも関心がない自分としては、この物語が真に近いかは知りようもないが、どこにでもいそうな女性の半生を綴ることで韓国社会の歪みを著した本作は、とても生々しい印象を受けた。韓国では、本作を女性が読んだと発言しただけでバッシングされるらしい。どんだけ。

 ストーリーらしきものはなく、普通の女性の生活が淡々と語られる。ギョッとした内容をピックアップしてみる。
 男を産まない女性は価値がない(女を産むと、「次は男ねと圧」)。家族の中で、部屋もごはんも男が最優先。就学も男優先。就活も女性が圧倒的不利。就職後も、男は辞めないように軽い仕事が与えられるが、給料は女性より多い。妊娠したら大体退職、再就職先ほぼなし(アルバイトしかない)。苛烈なのが、90年代まで女の子を身ごもると、堕胎が横行していたということ。どんだけ。

 

 儒教的文化とか、色々理由がありそうだけど、徴兵制も男女の分断に一役買ってそうだ。男性側は、徴兵の期間によって、就活面など不利になることが多いとの認識がある。いざとなったら、国を守るのは自分達だとも。

 徴兵制自体が時代錯誤の気がするけど、男性のみってのが更にずれている気もする。軍隊にも普通に女性兵士はいるし、どうせ徴兵するなら男女分け隔てなくやればいいのに。近代戦に素人兵士は邪魔とも聞いていたけど、ウクライナはもはや一般人男性もアテにしてるし、状況が混迷を深めれば、最後は腕力頼みなんだろうか。

 

 これが韓国の実態なのかと興味深くは読んだが、主人公がノイローゼになって、色んな女性に憑依される件は、特に回収されることなく終わる。アレが必要だったかは分からないけど、前段のホラー要素で引き込まれたのも確か。この韓国社会の描写が、果たして的確なのか、より知りたいとは思った。

希望の国のエクソダス / 村上龍

 中学生たちの、日本全国規模での集団不登校という刺激的なトピックと、時折挟まる経済情勢の詳細な説明が、微妙にマッチしてないように感じた作品。もっと経済に精通していれば、経済情勢が物語の流れに完全に沿っていることに驚嘆することができたのか・・。


 時は2000年代前半。バブル崩壊からの不況の脱出の糸口をつかめないままの日本。それはすなわち、大人が子どもに教示する、いい大学→いい学校、の方程式が崩れている時代。学校に通うことに意義を見出せなくなったためか、全国的に中学生が不登校になっていた。そんな中、日本人にとっては衝撃的な映像がニュースで取り上げられた。日本の中学生と思われる子どもが、紛争地域で反政府勢力の一員として活動していたのだ。更に、取材に来た日本の記者の足を、携えていた銃で撃ち抜きすらした。あまりの現実離れした事件に、日本のメディアは取り扱いかねて手を引いていった。しかし、日本の不登校の中学生に与えた影響は大きかった。この事件を受けて、ネットを媒介として全国の不登校の中学生が連帯し、同日同刻の夜に学校に集合するという不気味な動きを見せ始める。集会は一夜限りだったが、それからの彼らの動きは、大人には思いもよらぬものだった。主人公であるライターは、傾きつつある日本の中で、彼ら中学生が、大人顔負けの組織を形成して、強大な影響力を付けていく様を、目の当たりにすることになる。
 

 こんな荒筋です。不登校中学生たちが、大人の社会システムの規範をそのまま利用しながら、組織の規模を拡大させていくのですが、彼らは感情が読み取りづらい反面、徹底的にシステマティックである。あらゆる無駄を排除して、大人と議論する時も婉曲な言い方は許さない、というか興味がない。巨大企業を作り上げ、土地を買収して果ては地域通貨まで発行させるに至るのだが、村上龍がこの作品に込めた意図はなんなのか。単純に不況や大人社会への諦めを、少年たちに希望を託す形で昇華しようとしたという解釈でいいのか。ちなみに、エクソダスとは出国とか〝出エジプト〟を、指す言葉である。

ボイジャーに伝えて / 駒沢敏器

 作者の没後、その才能を惜しんだ人たちが有志で出版に至った作品。この作者の作品はほとんど読みましたが、〝どうしたら自然を、全身であるがままに感じることができるか〟を、常に生涯をかけて模索している人なんだな、との印象を持っています。紀行文や短編が多く、長編については未知数だったので、作者の遺志を継いで出版してくれた人達に感謝。読後感はとても不思議で、でも暖かな気持ちになる作品でした。あと、タイトルも好きです。
 

 主人公は音楽制作会社に勤めるOL。友人に誘われて訪れたライブで、不思議な印象を残すヴォーカルを目にする。曲も特徴的で、歌詞はなく、彼方に響かせるような音色の演奏のみ。最後にたったひと言口にした歌詞も、目の前の聴衆に向けたものには思われなかった。友人のつてで、打ち上げに参加する流れになり、件のヴォーカルと音楽全般について会話を交わす。音楽業界に身を置く自分からしても、彼の知識は豊富で感性は鋭く、それなのに控えめに話す姿に好感を持った。

 ほどなくして二人は付き合い始めるが、直後に彼は職を辞して、全国へ自然の音を採取する旅に出るという。二人の今後に不安を持ちつつも承諾し、日本各地から送られてくる、彼が録音した自然音に、身を浸す日々。初めのうちは、都心に住む身では感じることのできない自然の豊穣な音、そして土地土地で、こんなにも音色が異なるのかと感銘を受けながら聞いていた。しかしいつからか、彼が採取する音に、恐れにも似た違和感を抱き始める。まるでヒトと自然の境界が曖昧に感じられるような・・。生死の境が緩やかな自然の領域に、人としてどこまで入っていくのか、戻って来られるのか。彼は何に惹かれているのか。

 彼の求める音が、死の領域側にある確信を深めつつも、時折交わすメールだけでは、その疑問まで切り出せずにいた。彼の旅が沖縄にまで到達した時、初めて二人は旅先で合流する。沖縄の聖域とも言える、斎場御嶽を訪れた時、ようやく彼の核心に近い部分に触れることができた。どうして向こう側の世界に惹かれているのか。かつて彼は神戸に住んでいたという。

 95年、阪神淡路大震災。彼はそこにいた。

 

 十数年前が舞台ですが、作者の関心がスピリチュアルな方面なので、隔てられた期間で色褪せた印象は受けません。やや感性的な部分をどう受け止めるかは、初めて駒沢敏器を読む人間は、受け止め方が分かれそう。土地や自然の描写は相変わらず秀逸というか深淵というか。同じ土地を訪れても、全くここまで触れるこができていない自分を、毎度悔しく感じます。長編慣れしていないせいか少し拙く感じる部分もあり、あとがきではかなり苦悩した部分もあることが記され、もしもご存命であれば、より手直しをしたかっただろうなぁと思います。
 経済合理性、あるいは浅く縁どられた価値観に、本質を見失いがちな現代に、気づくきっかけをもらえた気がします。本質とは何なのか、なんのきっかけなのか。答えではなく、各々が己自身の身体と感性で何かに迫る、そんな感覚を。誰もがパターン化された日常や常識を脱ぎ捨て、それぞれが思う方法で自然や世界に飛び込んで、閉ざされた感覚を開くことができるのではないかと、そんな問いかけをされている気がします。

華氏451度 / レイ・ブラッドベリ

 50年以上前の作品なのに、現代への先見性とアイロニーが凄すぎる作品。現在の状況への萌芽が、半世紀前に既にあったのだろうか。


 主人公の職業は昇火士であり、書物を焼くことを仕事としている。本を所持していると通報があればその家に赴き、火炎放射器で家ごと焼き払うのだ。住人が抵抗すれば、本人すら焼き殺すことも。
 風変りな少女との出会いがきっかけで、主人公は自分の仕事に疑問を抱き始める。妻との乾いた関係にも・・。たまたま入手した本を自宅に隠し持った頃から、彼は今まで通りの心持ちでは働けなくなる。ほどなくして上司や同僚に疑念を持たれ、ある事件をきっかけに追われる身となる。逃亡の果てに、彼が遭遇した人物たちとは―。
 

 こんなあらすじです。主人公の心情の変化や逃亡劇も目を引きますが、時代背景の先取り感が何より秀逸。主人公の妻は、リビングのスクリーンに写った友人達と、終始おしゃべりをしていて、夜は睡眠薬に頼り切り。若者たちはスポーツや、車を猛スピードで突っ走らせることにしか興味がない。
 どうでしょうか。スマホやパソコンばかり見つめて、SNSで目の前にいない人と常時連絡を取り合い、飛行機や新幹線で空間をすっ飛ばして移動する。ファーストフードを食べて、サプリで栄養を補う。テレビでは、スポーツニュースを、政治や国際情勢よりも、さも大事なことのように取り扱う。まさしく現代人じゃないですか。

 

 華氏451度の世界は、これを国策として行っています。本を読み知識を付けたり、何もない時間があると、人は思索し、政府や消費社会に問題意識を持ち始めるので、あらゆる時間を空虚な娯楽で埋め尽くそうとするのです。
 結果として、すぐそこまで迫る政治的な危機に誰も気づくことなく、戦火の火蓋が切られます。爆撃に巻き込まれる寸前まで人々は娯楽の消費に忙殺され、避難もままなりません。追われる身であった主人公は、それが故に都心を離れており、どうにか生き延びます。爆撃の衝撃も冷め切らぬなか、誰かが焚火を焚いて料理を始めます。わずかな食糧を分け合い、凍えた身体を火の温もりで温める。
 

 華氏451度。それは本が燃える温度。同時に人の身体を温め、命を繋ぐ温度でもあるのだ。

夜が明ける / 西加奈子

 

 ふと思ったんですが、 『さくら』といい、『サラバ』といい、ストーリーというよりかは、人の人生をなぞっていく作品の方が、エンタメでなく、文学チックに感じるかも。

 刑事ものでも恋愛ものでもなく、 人生そのものがテーマなので、雑駁な内容になるのは否めないが、「サラバ」は作者の自伝に近い部分があったようで、感情移入がしやすかったように思える。

 

 本作品のストーリーは二人の男の半生の対比といったところか。

 

 テーマは大まかに、貧困と精神的貧困を描き出そうとしていた。 両者は区別できるものでなく、相互に影響を及ぼしあう。

 例えばアキは圧倒的な精神的な貧困からスタートした。 知的にも課題がありそうだが、神聖視する存在(マクライネンや主人公)を見出すと、それを眺めるだけで精神的充足が得られる。

 例えばクラスメイトの女子は、同じく圧倒的貧困からスタートするも、持ち前の強さとセンスで 何とか乗り切り、幸福とは言えないまでも困苦を乗り越えた人ならではの優しさを身に付け、 人並みの人生を手にする。

 例えば主人公は、不自由ない家庭に途中で味わう。 夢も持って仕事に臨むが、激務に身を削られ、やがて精神的にも貧しい人間になっていく。

 三者三様であり、貧困の種類も感じ方も、一筋ではいかないことが窺える。
ただそれを個人や社会のせいにするでもなく、起きたことを淡々と描写する。 まあ教科書や政治提言じゃないんだからね。

 

 個人的に恥ずかしかったのは、アキと主人公の居酒屋のシーン。 夢を語る若者。身に覚えがあるようなないような。しかもアキは真に受け主人公を超絶尊敬しちゃってるし。まあ叶わなかった夢を単に諦めたり、折り合いを付けたり、軌道修正したりと、自由度が高 いのが人生のだいご味なんだけど。 でも貧困は選択肢を狭め、心も自由度を失うだろう。 貧しさが人に及ぼす影響は根深い。

 一つの結論としては、「人に助けを求めるべき」って言いたかったのだろうか。後輩に言わせたあのセリフ。少し唐突だけども、それで助かることがあるのか。いや、案外往々にしてあるのかも。

 

 それなりの家庭で、現在もそれなりにやれている自分には、少し響く部分が少なかった ように思われる。しばらく間をおいて、忘れたころにまた読んでみたい。