ザ本ブログ

読書をメインに。他、雑記などをアップしていきます。

激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972 (講談社現代新書) [ 池上 彰 ]

 学生運動世代ではないので、例えばあさま山荘事件とか、安田講堂に立てこもるとか、日本赤軍・革マル・中核とか全てが後のニュースで断片的なニュース映像でしかなく、とにかくきな臭く暴力的で、忌避するものとしか感じていなかった。本書を読み、そうした様々な事件の繋がりが見えてきた面もあるが、総じて共感することは、ほぼほぼできなかった。後の時代から過去を断罪するのは適切ではないけれど、あえて素直に感じたことを述べる。所詮読書感想文だし。

 

 学生運動はおおいに盛り上がり、様々な行動に結びついた潮流ではあったが、後の世にプラスになるものはあまりなかったというのが、本書で対談した二人の結論であった。それはそうだろうと思う。新左翼のような集団が、表舞台から姿を消した直接の原因は、その暴力性やそこから発生した血なまぐさい事件が主たる原因だ。

 ただ自分は単純に、「理解してもらう努力(と感性)」が、欠けていたのが一因ではないかと感じた。まず言葉が無意味に分かりづらいんですよね。(対談者の二人も当たり前のように使ってたけど、イヤ普通知らないし)ブントとかオルグとかダラカンとか。集団と勧誘と自己中でいいじゃん。当時の学生運動に関わっていた若者は知的で、その後も社会で活躍してるって言ってたけど、それって統計的にどうなの。別に学生運動に関わっていなくとも、様々な分野で実績をあげた人もいるのでは。ってか普通にいるでしょ。


 結局、各派閥で結託して行動する目的が、自分の主張を押し通すことだったみたいだけど、妙に難解な言い回しは世間では受け取りづらいし、それを理解しようとするのが対抗する派閥の人たちだけだったから、そこでの見解の差から、暴力で相手を従わせようとする。それが内ゲバとか言ってるんだけど、ただの内部抗争だし、ゲバ棒はただの角材でしょ。なんで、いちいち無意味に言葉を作るの。
 よく分からない主義主張を叫んで、派閥に分かれて争うことは、現代の政治と同じくオワコンにしか感じられない。単純にコンテンツとして魅力じゃないんですよ。派閥の中で、難解な議論が共有され、互いに理解されているかも疑問だし。全員がIQ160ってわけじゃないんでしょ?秀才しか理解できない主張なら大多数には伝わらないし、本当に頭がいいなら、多くの人に理解できるレベルにかみ砕いて伝えるべき。


 今も昔も、政治に求められているのはイデオロギーではなく、問題解決では。子育て、介護、格差、教育、戦争、犬猫の殺処分ゼロでもフードロス減らすでも何でもいいんですよ。問題は山積みで多様化しており、政治が全てを直接解決できないのは承知なので、然るべき団体をサポートする働きをすればよい。リソースが限られているので、全てに対応するのではなく、優先順位を決めて対応する。政治に求められてるのはこれだけじゃない?ナントカ主義とかナントカ派とか知らないですよ。大体資本主義だって、研究者の間でも定義は案外曖昧ですからね。

 脱線しまくりましたが、必要なのはでっかいイデオロギーでなく、細やかな解決です。まして暴力に訴えるなんて、お話にもならない。

 

これが韓国の女性差別の現実なのか 『82年生まれ、キム・ジヨン』 / チョ・ナムジュ

 韓国社会の男尊女卑文化を、これでもかと紹介している。韓流も、日韓の政治的なしがらみも関心がない自分としては、この物語が真に近いかは知りようもないが、どこにでもいそうな女性の半生を綴ることで韓国社会の歪みを著した本作は、とても生々しい印象を受けた。韓国では、本作を女性が読んだと発言しただけでバッシングされるらしい。どんだけ。

 ストーリーらしきものはなく、普通の女性の生活が淡々と語られる。ギョッとした内容をピックアップしてみる。
 男を産まない女性は価値がない(女を産むと、「次は男ねと圧」)。家族の中で、部屋もごはんも男が最優先。就学も男優先。就活も女性が圧倒的不利。就職後も、男は辞めないように軽い仕事が与えられるが、給料は女性より多い。妊娠したら大体退職、再就職先ほぼなし(アルバイトしかない)。苛烈なのが、90年代まで女の子を身ごもると、堕胎が横行していたということ。どんだけ。

 

 儒教的文化とか、色々理由がありそうだけど、徴兵制も男女の分断に一役買ってそうだ。男性側は、徴兵の期間によって、就活面など不利になることが多いとの認識がある。いざとなったら、国を守るのは自分達だとも。

 徴兵制自体が時代錯誤の気がするけど、男性のみってのが更にずれている気もする。軍隊にも普通に女性兵士はいるし、どうせ徴兵するなら男女分け隔てなくやればいいのに。近代戦に素人兵士は邪魔とも聞いていたけど、ウクライナはもはや一般人男性もアテにしてるし、状況が混迷を深めれば、最後は腕力頼みなんだろうか。

 

 これが韓国の実態なのかと興味深くは読んだが、主人公がノイローゼになって、色んな女性に憑依される件は、特に回収されることなく終わる。アレが必要だったかは分からないけど、前段のホラー要素で引き込まれたのも確か。この韓国社会の描写が、果たして的確なのか、より知りたいとは思った。

真っすぐヒネくれた主人公と、脱力感ただようキャラ達が推し! 『レッドブルー』 / 波切敦

 

 格闘マンガは数多く読んできたけど、『レッド・ブルー』は、少々異色。
主人公の青葉君が、まっすぐひねくれている笑。あと、登場人物がみんなどことなく力が抜けていて、ラクに読めるんですよね。日本の、そこらへんの高校生たちが主役で、悩みも等身大。

 

 そして作者はネアカと体育会系がキライだと思う笑。どことなく、カゲやひねくれがある高校生達に感情移入しやすく、無駄な恋愛要素がないのが良い。


 主人公がライバル視する相手は、格闘界の若手のホープで、教室ではもちろんスターのイケメン高校生。イジメられている主人公を助けては、なぜやり返さないのかと諭す、まっすぐ主人公キャラ。


 こうした真っすぐ主人公タイプのデリカシーの無さに、ノーを突きつけたい根暗作者の希望が、青葉君だと思うんですよね笑。
 

 主人公って結構身勝手で、デリカシーない人多くないですか?

 

 次に勝てる保証もないのに、地球を滅ぼしに来たサイヤ人を「また戦いたい」とワガママ言って生かして帰しちゃう人とか。

 俺は長男だ!とか言って、次男・三男・長女・次女その他を婉曲的にディスる人とか。
 一人で突っ走って、結果的に非戦闘員(気象予報士とか)に望まぬ戦闘を強いるゴム人間とか。


 ホラ!ロクな人間いないじゃないですか!あんなん主人公補正でどうにかなってるだけで、上げ底なければただの戦犯ですよ。と、作者は言いたいに違いない←思い込み。

 

 とゆーわけで、キラキライケメン高校生などは、格闘経験浅い根暗モブ主人公に気持ちよく倒されればいいのですが、きっと中々そうはならないんだろうなぁ笑。
ひねくれ作者の、予想付かないストーリー運びに期待!あと。カラー表紙の色のセンスも好き。

『ベルセルク』の遺志を引き継ぐ親友の想いが熱すぎる

 昨年、『ベルセルク』の作者である三浦健太郎氏が、54才という若さで亡くなった。

 

 ベルセルクと言えば、全世界で5千万部売れているダークファンタジーで、重厚に描き込まれた絵と世界観、神懸かり的な展開で世界中に多くのファンがおり、もちろん私もその一人だ。あまりにも濃密に描き込む作風のため筆が遅く、連載開始から30年経っても、中々ラストが見えてこない(笑)。
 

 それでも、少しずつでも先が読めるならと、毎巻楽しみにしていたのですが。。最も好きな漫画だけに、絶望もひとしおでした。
 不謹慎な考え方ですが、凄いスポーツ選手が絶頂期で亡くなったとしても、いずれ同じような記録を打ち立てる選手が現れるだろうと思います。
 でも、一つの作品が途切れたものを、誰かが続けて創作することは通常不可能です。それは作者の頭の中にしかないのだから。凡庸な作品なら、無理やり終わらせてしまうこともできるでしょうが、数多くある漫画の中で、『ベルセルク』は次元が違います。そう考え、昨年は悲しみに打ちひしがれていました。。

 

 しかし今年、驚愕の発表がされました

 

 なんと『ベルセルク』の連載が再開されるというのです。
 初めは「どういうこと?」、と思いました。クオリティの低いスピンオフ作品なら、むしろやめて欲しいとすら思った。俺の『ベルセルク』への執着心は、ガッツのゴッドハンドに対するソレと同等だぞぉ!中途半端は許されん!

 

 ここでもう一人の人物を紹介しなければなりません。『ベルセルク』の作者、故・三浦健太郎氏の盟友、森恒仁氏です。この方もプロの漫画家で、三浦先生ほど知名度はありませんが、『ホーリーランド』『自殺等』『無法島』『創世のタイガ』など、濃いテーマの作品を描いており、この方についても私は大ファンです。

 

 そして森先生と三浦先生、この二人は幼馴染で親友なんです。

 

 このことが、『ベルセルク』の奇跡の復活のきっかけとなりました。『ベルセルク』を諦めきれない弟子達(アシスタント達)が、絶筆となった回を最後まで描き上げ、森先生のもとに持ち込んだのです。その回は、後半はまだ人物も描かれておらず、完全にゼロから構成した形になりました。森先生はそれを聞いた時、「正直厳しいだろう」と思って原稿を手にしたようです。三浦健太郎の画力を、弟子とは言え、他人が再現できるはずがないと。

 

 しかし原稿を読んで、考えが変わりました。三浦健太郎の『ベルセルク』が、ここに在る。弟子たちは、三浦健太郎の技術と遺志を見事に引き継いでいたのです。

 

 三浦先生が亡くなってから、森先生は忸怩たる思いを抱えていました。道半ばにして亡くなった親友の作品に対して、どう向き合えばいいのか。弟子たちは制作の現場の中で、作品の今後の展開を、断片的には聞いていました。しかし、ラストまでを三浦健太郎本人から聞いていた人物は、親友である森先生ただ一人。せめてストーリーを文章で発表しようかとも思い悩みましたが、弟子たちの執念に触れ、覚悟を決めました。自分が監修し、弟子たちの制作で、『ベルセルク』を最後まで描き切ろうと。

 この超絶胸熱展開について、まとめます。
 親友で幼馴染の二人が、プロの漫画家になって同じ雑誌で掲載し、片割れが亡くなると、残った親友がその作品を最後まで受け継ぐ。上手く出来すぎてて、実話とは思えない。この実話が映画化されたら、涙なしで見る自信はない。
 ぜひ、映画化お願いします。そして三浦先生に尊敬と崇拝と哀悼との意を〝捧げ〟ます。

もう今までと同じ気持ちで、ハワイ観光はできない

 最近旅行というものの本質を考える機会があった。旅先で観光を楽しみ、ご当地グルメに舌鼓を打つのはリフレッシュや地方の経済振興にとても有意義なことだと思う。一つ考えるきっかけになったのは、井出明の『ダークツーリズム』を読んだこと。華やかな観光地を楽しみつつ、その地の悲しみの歴史に触れることは、より深く土地を知る充実感を感じられるだろう。

 ただ少し踏み込むと、自分は観光=経済が潤うと考えていたが、観光業単体では、それほど経済に寄与するわけではないこと知った。例えば沖縄を見れば明白だろう。多くの観光客を集めても給与水準は低く、生活保護の受給率も高い。また観光業は基本的に肉体労働で、得られるスキルも多様でなく、他の仕事に就こうと思ってもツブシが利かないとの側面もある。加えて、好不況の波を受けやすく、昨今はコロナのような疫病の影響も甚大であることが分かった。災害によって、宿のキャンセルが相次ぐニュースを耳にすることも多い。

    自分としては、旅行も観光も大事な楽しみではあるが、現地の人が多様な収入源や、スキルを身に付けられる業態に変えていかないと、将来的に持続が難しいのではと感じた。(例えばIT化で業務を効率化し、全国に発信できる商品の開発を行い、直接客が来なくても常に利益が得られる体制を作るとか。メタバース内のバーチャル体験で収益を上げるとか。)

 

 そして決定的にショックを受けたのが、駒沢敏器の『伝説のハワイ』。

 日本人として、ハワイと聞いて思い浮かべるものは何であろうか。エメラルドグリーンの海と、白い砂浜にヤシの木。どこか気だるいハワイアンミュージックにフラダンス。アサイーボウルやステーキなど。アメリカの州の一つで、リゾート地。それ以上の認識は何もなかった。そういえば世界史でカメハメハ大王とか習ったような。それらの多くが、アメリカによって強制的に併合・収奪された後の姿だったとは、思いもよらなかった。
 観光客があいさつ代わり程度に使っていた「アロハ」は、本来はハワイアンの重要なスピリットを顕す言葉だった。それは調和や自然との一体感などを示すものらしい。例えばキリスト教徒に、「アーメン」をこんにちは代わりに使ったら、どんな反応を示すだろう。それほど、リゾート化された「アロハ」は、ハワイの魂を踏みにじっている。
 彼らの主食はポイ(タロイモ)で、その畑(タロパッチ)を耕すことが、重要な営みの一つだ。よく手入れされたタロパッチは農薬も殺虫剤もいらず、長く恵みをもたらしてくれ、自然と調和している。農作業に疲れたら、その辺に自生しているマンゴーなどの果物を食べれば良い。

 本来のフラは火山の女神ペレに捧げるものだった。フラには何日も前から物理的・精神的に準備が必要で、現在のように対価を得て観光客に供されるものではない。祝い事や、特別な来客の時には、村をあげて宴(ルアウ)が催され、豚肉が振舞われた。昔はしょっちゅう行われていたらしいが、現在では年に1回あるかどうか。『伝説のハワイ』の出版が94年と30年前なので、現在ではもう見られないのかも知れない。

 

 何も旅行や観光の全てをネガティブに捉えようというわけではない。どんな土地にも、悲しみの歴史は少なからず刻まれているだろう。ただ、現在進行形で失われゆく文化がある場合に、その地を訪れる全ての人が、その土地の歴史や文化の本質に無関心でいいのだろうか。データや物は残せても、文化や生活様式が損なわれると、戻ることはない。本人達が変化を望んだのなら良い。ただ多くのハワイアンは、アメリカの強制的な支配で失われる文化を嘆き悲しんでいる。その収奪された土地のうえで経済活動を行う日本を含む国々も、そして観光客も、この事態に無縁ではない。

 収奪の先に訪れるのは、均質化だ。日本の地方都市を訪れると明白だろう。ロードサイドには、日本全国同じ大型チェーンが立ち並ぶ。均質化された土地を、訪れる意味がどれほどあるのか。旅行の本質がここで問われる。異文化、異質なものに触れ、自分の固定観念が取り払われる経験をすることが、旅行の醍醐味ではないのか。海やリゾートは至る所にある。しかしハワイ文化が消え去れば、本当の「アロハ」を感じる機会は、永遠に失われる。
 

 一つだけ提案してみたい。旅立つ前に訪問先の歴史を学び、その地の文化に敬意を払って観光する。たったそれだけで何かが変わるだろうか。何も変わらないかも知れない。でも商業的な物より、土地々々に根差した文化的なものを買い求めるようになれば、文化の保護に繋がるかも知れない。敬意を払って現地の人に接すれば、より深い文化を学ぶ機会に恵まれるかも知れない。そうした事柄を知れば、何かの形で人に伝えたくなるだろう。そうして本質的な想いが、さざ波のように伝わっていくかも知れない。

 

 この先もずっと、旅が人の人生を豊かにするために。

 

≪発見の航海とは、新しい風景を探すことではなく、新しい眼差しを持つことである≫
ー マルセル・プルースト ー