ザ本ブログ

読書をメインに。他、雑記などをアップしていきます。

対論! 生命誕生の謎 [ 山岸 明彦 ] /インターナショナル新書

 生物学者二人の対談本。それぞれ最初の生命が誕生した場所について、譲れない自説があるため、かなりバチバチした場面もありましたが、それ故に緊張感を持って読み進めることができました笑。
 深海の熱水噴出孔は長期間に渡り安定してエネルギーの供給がある。かたや、生命には脱水縮合反応が必要なので、温泉地が最適とのお二方の主張。この点について、二人が折り合うことはなかったですが、近い将来結論めいたものがもたらされそうですね。
 ただ、そもそもの生命の定義が、RNAを有するとかダーウィン進化に当てはまることなど複数あり、それによっても答えが変わってきそうです。

 

 対談は生命誕生だけに留まらず、最新の宇宙開発まで。火星やエウロパに探査機を飛ばす計画や、月に宇宙開発の拠点を建造するプランまで。異星人を探すプロジェクトも、可能性は低いとしながらも大変夢があります。
 

 しかし宇宙開発の話は夢があるけれども、ドイツの哲学者マルクス・ガルブレイスの言葉がどうも頭から離れません。彼曰く、宇宙開発に向ける資源があるならば、現在地球で起きている問題解決に注力すべきだと。そう言われるとそんな気もします。

 ただスポーツもエンタメも、何なら考古学とか文学とかも直接的には意味ないですよね。使われる資金の量がケタ違いなのかな・・。環境や格差、災害など、確かに今すぐにでも解決しなければならない問題があるのは、多くの人が把握していると思います。ただ問題があるから、皆がそれを解決する立場に向かうかどうかとは別問題。それほど人の興味は多種多様で、不要必要では割り切れない。好奇心は、進化や生き残りに必要不可欠だからこそ獲得されたとの説もあります。


 全人類が、一つの問題に一致団結して立ち向かうのは、よほどのことがなければ今後もなさそう。

 

 それこそ、宇宙人の来襲とか笑。

ミシシッピは月まで狂っている [ 駒沢敏器 ]


 何事にも始まりはあるけど、音楽の源流ってどこにあるんですかね。ジャンルにもよると思うのですが、やはり自然の音なのでしょうか。風でそよぐ木々、川のせせらぎや滝の轟音。鳥のさえずりや、獣の雄たけび。誰が始めたのか、どこからが音楽なのか。境界線を引くのは難しいですが、今も聞かれている音楽のルーツを探るのは可能なのかも知れない。本書は著者が、ハワイアンやブルース、アイリッシュ音楽の源流を探る旅を、紀行文の形で著しています。


 自分は音楽の知識にはとんと疎く、ほとんどポップスしか聞きません。あとは軽く部屋でYouTubeで聴けるジャズを流すくらい。そんな自分でも、著者の音楽の源流を探りそれを探し当て、現地で目の前で生演奏をしてもらうエピソードには、とてつもない羨ましさを覚えました。

 

 アイルランドでは、毎晩パブでギネスビールを飲みながら取材をする描写があり、あまりに美味しそうなので、自分も五反田のギネスが売りのパブに行ってしまいました笑。そんなアイルランドの地での音楽探訪の旅は、荒涼とした自然環境と相まって儚くも美しく、現地で不定期に開催される村人達だけの演奏の催しは、アイリッシュ音楽のルーツを感じることはもちろん、音楽とはそもそも何のためにあるのかを思わされた。  

 明確な時間は決められておらず、とある晩に村人たちが小さな公民館のような場所に集まりだす。村人達がギネスを飲み談笑するなか、取り決めもなくバンドによる演奏が始まり、音痴な老婆も歌手顔負けの歌い手も関係なく演奏に参加し、バンドがその声を下支える。ドレスコードはなく、飲食するも談笑するのも構わない場の居心地の良さは商業的な価値とは縁遠く、居ずまいを正して清聴しなくてはならないクラシックコンサートとは異質なものだ。

 

 周到に用意されたコンサートの音楽が素晴らしいのは言うまでもない。ただ洗練されるがあまり、その地で暮らす人々の息遣いのようなものをそぎ落としてきたのではないか。誰のためでもなく開かれる村人たちのささやかな音楽の催しに、その土地が持つ固有のリズムや、その地に住む人々の生活の悲喜こもごもが、静かに息づいているのかも知れない。

 

ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅 (幻冬舎新書) [ 井出明 ]

 日本では2011年の東日本大震災以降から、ダークツーリズムという考え方が、聞かれるようになったと思う。本書はダークツーリズムの研究者である著者が、当概念について手ほどくと共に、自身が各地を巡って、その地の記憶や遺構をダークツーリズムの見方から案内する紀行文の形を取る。


 東日本大震災などの災害の爪痕については、当事者達の忘れたいという気持ちと、記憶を継承して忘れまいという気持ちがせめぎ合う。筆者は極力、現状を保存していくことを推奨している。それは事実として、実際のモノが失われると、文書などで残っていても風化して、忘れ去られている現実を目の当たりにしたからだという。


 北海道の稚内では、1945年の終戦間際にソ連が侵攻してきて、その地の電信所にいた女性職員たちが陥落寸前まで電信を送り続け、「これで最後です、さようなら、さようなら」の電信を最後に、全員が服毒して自決したとの記録があるという。内容だけ見れば、白虎隊やひめゆり部隊に匹敵する悲劇だと思うのだけれど、これも実際の建物などが残されていないせいか、記憶の承継がなされていない。現物があって、人の記憶を刺激し続けることが、保存に当たってはるかに有利なことがうかがい知れる。語りつなぎ、悲劇を繰り返すことを防ぎ、事実を明らかにしていくことが、その地に生きた人の魂に報いること繋がると思う。


 個人としては、東日本大震災の一年後にボランティアで震災跡地の沿岸を訪れたことがある。住宅街があったであろう場所は、土台しか残されておらず、街は原型を留めていなかった。底抜けに天気がいい日で、冬晴れの青空に風が気持ち良く吹きわたり、災禍とのギャップが物悲しかった。被災地へのメッセージが寄せられた国旗が風にたなびいていて、伝言を寄せた人たちの気持ちが純粋なものであったとしても、家も関係性も破壊し尽され、仮設住宅で暮らす被災者達の心情とはかけ離れていることに、軽い気持ちでボランティアに参加した自分と重なる部分があり、居心地の悪さを感じた。


 伊豆大島の台風による土砂崩れや、熱海の盛り土による土砂崩れの現場も訪れたことがある。東日本大震災の東北地域に比すると、災害の威力はいずれも甚大であるものの、局所的であることが印象に残った。直接の被害者にしてみれば、規模の問題ではないだろうが、広範囲に被災し、なおかつ原発の放射能の問題まで抱えた災害に比べると、まだしもケアの余地はあるのだろうか。


 いずれも観光ついでの軽い気持ちでの訪問ではあるが、自分は被災後の地域には、積極的に出かけるようにしている。何か事故があれば宿のキャンセルが相次ぎ、観光地の収益が落ちてしまうことを良く耳にするからだ。被災地の被害状況にもグラデーションがあり、無事な地域の経済まで滞れば、被災地区の復旧にも支障をきたすのではないだろうか。被災地区は神妙な気持ちで訪問し、自然の巨大さやその災禍を防ぐ手立てなどに思いを馳せ、楽しむ所は存分に楽しめばいいのである。自粛の気持ちなど、被災者には届かない。復旧・復興に必要なのは、実践的な支援・資金しかないのだ。

職場で食べられる、ヘルシーなおやつを探してみた(無添加)

 普段から人工甘味料(アセスルファムK、アスパルテーム、サッカリン、スクラロース等)とか植物油脂(マーガリン、ショートニング)は摂らないようにはしてるんですが(外食は気にしない、ってか無理)、間食、つまりおやつは難しいですよね。
まあ食べなきゃいいって話なんですが、小腹は減るし口さみしい。

 ってことで、僕が実際に食べたものの中で、無添加ヘルシーでそこまで高価過ぎず、小分けで職場で食べやすいおやつをピックアップしてみましたよ!!

 

やきいもころころ

 何と原材料はサツマイモのみ!サツマイモを焼いて、一口サイズにしたもの。すごく甘くてしっとりなので、お茶やコーヒーと食べても美味しいです。サツマイモは食物繊維が豊富で、長寿の島の人たちは、おやつはサツマイモばかりだとか。これはおすすめです。

 

サクッとうまいコイワシ

 ノンフライ(熱風などで乾燥させ、風味付けに油を塗布)なのに、チップスっぽくてサクサクで美味い!カルシウムとタンパク質が豊富で、ポテチをこちらに変えれば圧倒的にヘルシーです。こういう魚を乾燥させたものって甘いのが多いじゃないですか、苦手なんですよねアレ。これはうす塩味なので、食べやすくて止め時が分からないヤツです笑。あとね、これビールに合うんですわ。和風のゆず風味のクラフトビールと合わせたら最高でした。

 

かむカムこんにゃく

 こんにゃくを細く切って乾燥させて、味付けしたもの。ホタテとかエビとか、味は複数あります。口に入れた瞬間はパサパサでなんか微妙・・って思ったけど、噛むと水分を含んできて、味がどんどん出てきます。こちらものこんにゃくなのでヘルシーだし、噛んで満腹中枢をごまかすには丁度良い感じです。

希望の国のエクソダス / 村上龍

 中学生たちの、日本全国規模での集団不登校という刺激的なトピックと、時折挟まる経済情勢の詳細な説明が、微妙にマッチしてないように感じた作品。もっと経済に精通していれば、経済情勢が物語の流れに完全に沿っていることに驚嘆することができたのか・・。


 時は2000年代前半。バブル崩壊からの不況の脱出の糸口をつかめないままの日本。それはすなわち、大人が子どもに教示する、いい大学→いい学校、の方程式が崩れている時代。学校に通うことに意義を見出せなくなったためか、全国的に中学生が不登校になっていた。そんな中、日本人にとっては衝撃的な映像がニュースで取り上げられた。日本の中学生と思われる子どもが、紛争地域で反政府勢力の一員として活動していたのだ。更に、取材に来た日本の記者の足を、携えていた銃で撃ち抜きすらした。あまりの現実離れした事件に、日本のメディアは取り扱いかねて手を引いていった。しかし、日本の不登校の中学生に与えた影響は大きかった。この事件を受けて、ネットを媒介として全国の不登校の中学生が連帯し、同日同刻の夜に学校に集合するという不気味な動きを見せ始める。集会は一夜限りだったが、それからの彼らの動きは、大人には思いもよらぬものだった。主人公であるライターは、傾きつつある日本の中で、彼ら中学生が、大人顔負けの組織を形成して、強大な影響力を付けていく様を、目の当たりにすることになる。
 

 こんな荒筋です。不登校中学生たちが、大人の社会システムの規範をそのまま利用しながら、組織の規模を拡大させていくのですが、彼らは感情が読み取りづらい反面、徹底的にシステマティックである。あらゆる無駄を排除して、大人と議論する時も婉曲な言い方は許さない、というか興味がない。巨大企業を作り上げ、土地を買収して果ては地域通貨まで発行させるに至るのだが、村上龍がこの作品に込めた意図はなんなのか。単純に不況や大人社会への諦めを、少年たちに希望を託す形で昇華しようとしたという解釈でいいのか。ちなみに、エクソダスとは出国とか〝出エジプト〟を、指す言葉である。