ザ本ブログ

読書をメインに。他、雑記などをアップしていきます。

『サイコメトラーEIJI』 原作:安童夕馬、作画:朝基まさし

 連載されていたのは、20年くらい前でしょうか。当時の渋谷や、自分には縁のない不良文化の最先端を行っている感じがして、ワクワクして憧れたものです。

 最近久しぶりに手に取る機会があり、読んでみると

 

 ムチャ面白い

 

 さすがに中高の時に読んでいたものだし、超能力がちょっと使えるだけのヤンキーマンガだろうと、タカをくくってたんですが、度肝を抜かれましたね。

 

 まずは、圧倒的な画力。上手い雰囲気とかじゃなくて、現実のアクションを理解できるように描ききるのが、抜群に上手い。デスノートの作者の小畑健も上手いですが、アクションはこちらが格段にカッコいいですね。そして原作者が別にいるので、1章毎の構成がしっかりしていて読みごたえがあります。

 

 主人公・映児のサイコメトリー能力が、かなり限定されているというのが、ミソなんでしょうね。触れた対象物から、断片的な情報を得るだけ。万能過ぎると、謎解きの要素がなくなってしまうし、主人公の能力以外の要素が色褪せやすい。欠点の多い能力だからこそ、映児の意志の強さや、身体能力、または仲間の助力が輝くのでしょう。

 

 今読むと、時代の隔たりは感じます。まだガラケーだとか、ファッションとか。渋谷も、当時のギラつきは、もうないですもんね。でも、それがかえって当時の雰囲気や文化を伝える役割を果たしています(笑)。轟編、カンナビス編、そして最終章の疾走感はハンパじゃないです!!昔読んだことがある人も、まだ読んだことがない方も、ぜひ手に取ってみてください。止まらなくなること請け合いです。

イジメられる原因があったとしても、イジメる理由にはならない。以上。

こんな記事を目にしたので、色々考えてみた。イジメについて、加害者、被害者、傍観者として、全く関わったことのない人は、ほぼゼロなんじゃないですかね。

president.jp

 

個人的な意見としては、タイトルで大体終わってます笑。仮にいじめられる原因があったとしても、いじめる理由にはならない。これが全て。いじめる方が極悪。家庭環境とか関係ない。

 

このプレジデントの記事については、子供達は「襲われたのは、女性が露出度の高い服を着ていたせい」、と同義のことを言っているので、まず論外。教師は子供の議論のすり替えに対応できておらず、力量不足。本テーマはSNSではなくイジメ。教材選びに失敗してますよね。

 

目次 

 

自分のイジメ経験について

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自分で言うのもなんですが、どうやら感受性の強い子供だったらしく、それなりにイジメられやすい性格でしたね。幼稚園ではよく泣かされてたみたいですが、正直アレがいじめだったのか記憶はなく…、ただの泣き虫だったのかも知れません。 

 

4歳の頃、父親の転勤に伴いイギリスに引っ越しました。現地の学校なので、当初は言葉がわからず、また黄色人種ということもあり、やはりからかいの対象ではあったみたいです。椅子に座ろうとしたら、直前で椅子を引かれたり(鈍いので最初目測を誤ったと思ったのですが笑)。母親曰く、校庭で集団で囲まれて蹴られたりしてたらしい?この記憶は全くないので、親の見違いか、自分が都合をの悪いことを忘れているのか。

いずれにせよ、母親はその光景を見て、涙を流したそうです。

 

被害者が転校するべき?加害者を転校させるべき?

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親が下した判断は、自分を転校させることでした。当時は仕事の都合としか聞いてなかったので、赤レンガの綺麗な家から離れる寂しさしか覚えてません。親の心子知らず笑。

 

転校先では英語に慣れたこともあってか、特にイジメられることはありませんでした。勉強もスポーツもそこそこできたので、ちょこちょこ問題は起こしながらも、それなりのポジションを築き、親友と呼べる友達もできました(金髪で青い目のイケメン・ルーク。元気にしてるかなぁ笑)。

 

つまりこの場合、転校を選んだ両親は正解だったと言えます。当時、子供がイジメられたら転校なんて概念がどれだけあったかは知りませんが、素早い判断、英断ですよね。本当に感謝してます。

 

ただし、イジメられたから引越・転校というのは、それなりに時間的、金銭的に余裕のある家庭しかできないと思います。そして被害者がそういった負担をしなければならないことにも、疑問が残ります。昨今ではイジメた側を、隔離・転校させるべきとの議論もあります。どの程度を隔離すべきとするかは判断は難しいですが、より深く議論して、制度を整えていくべきですよね

benesse.jp

 

 自分のイジメ経験について2

小学校低低学年の時を除き(あまり覚えてないけど)、いわゆるイジメのようなものには、遭遇していないと思います。中学くらいになると、性格上ちょっと不良とか先輩に目を付けられて殴られるぐらいはあったりしましたが、周囲の助けもあって、大事に至ることはありませんでした。

ちょっと印象的だったのは、恐らく近所に住む中学の先輩が、自分の家の鉢植えの土を、郵便受けに投入したらしい?のですが、何ソレって感じですよね。陰湿この上ない。不良ぶってるなら、せめて怒鳴るか殴るかすればいいものを。

 

いじめの定義について

ちなみに文部科学省のイジメの定義についてですが、 平成18年までは「自分より弱い立場のものに対し、心身への苦痛を与えた場合」と、定義されているので、上述の先輩に対して、私は自分より雑魚と考えていたので、イジメに該当しないらしい。納得いかない。

平成18年の改正で“自分より弱い立場”の文言が撤廃されたので、ようやくイジメ認定されるかと思いきや、「ポストに土入れる」というショボい行為に対して、自分がどれだけ苦痛を感じたか甚だ疑問なので、やはり認定は厳しいのではないか。納得いかない。

あまり糾弾すると“弱いものイジメ(笑)”になっちゃうので、ここらで止めておこう。

いじめの定義について〈参照〉

いじめ - Wikipedia

いじめの問題に対する施策:文部科学省

 

 

イジメられる原因、イジメる理由

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イジメられる原因なんて無数にありますよね。ってのが下記リンクの一文に良く表されてます。

「いじめられる方にも理由があると言う人もいるけど いじめたい人が いじめる理由が欲しいだけだと思う」↓

curazy.com

気に入らない人がいても、関わらなければいいだけなんですけどね。学校の教室という閉鎖空間だと、それも難しいのかも知れないけど。何にせよ、誰にだって間違って人を傷つけてしまうことはあるとは思います。

しかし、「徒党を組んだり、継続的に」誰かを傷付けることは、間違いでは済まされない。計画的かつ確信的ですからね。

あと自分はいい家庭に育ってきてなんですが、“家庭環境”も理由にならないと思います。よろしくない家庭に育っても、マトモに生きてる人なんていくらでもいますから。普通の家庭に育って、イジメの加害者になる方もいますし。統計は知りませんが、関係ない。イジメの被害者にとっては、全くもって関係ない。

下記のリンクの方の、加害者側の体験談はある程度客観的な気もします。要は自分がターゲットになりたくないから、あらかじめマトを作っておくのだと。ここら辺の心理的なメカニズムは、大人側が理解しておくべきかも知れません。

いじめっ子の体験談1

 

まとめ ーイジメにどう対処するかー

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一応自分は加害者ではないつもりなんですが、まあ口数も多いし、人傷付けたことはままあると思います。今は大人(ってかオッサン)なので、指摘されれば謝罪はしますし、納得できなければ反論はしますし、理性的に対処はできるかなと。でも子供にその立ち回りは難しいですよね。よって前半で書いたように、 対症療法が難しい段階だったら、どちらかを隔離するのは有効だとは思います。本人に奮起を期待するのは酷ですので。逃げるのは役にたつし、まして恥では決してない。エヴァ初号機碇くんも逃げていいよ!

Wikipediaのイジメの項目を読んでて、おやと思ったのが、セクハラやパワハラも広義にはイジメなのだと。会社においては、クラッシャー上司や先輩は、大問題ですよね。絶対どこの組織にもいるし。自分はたまたま当たったことがないのですが、もし当たったらやってみようと思うことが二つ。

一つは怒鳴られたら、同じ声のボリュームでお話をさせていただく(笑)。二つ目は、内容に問題があると判断された場合、これ見よがしにボイスレコーダーを見せた状態でお話いただく(笑)。

まぁ強行手段に出る前に、懐柔した方がいいには決まっているのですが。友人の話を聞くと、どうもそれどころではない方もいらっしゃるみたいなので。

クラッシャークラッシャーになってみたい。

誰かやったことある方、いらっしゃいます?笑

君の膵臓をたべたい(キミスイ) / 住野よる 〈双葉文庫〉

本のタイトルをよく目にして気になっていたので、読んでみました。1年ほど前に、小坂流加の『余命10年』を読んでいたのですが、それに似ているテイストかなと。

 

元々自分は人の死生観とか、哲学的なテーマが好きなので、続きが気になって一気に読んでしまいましたね。時々、鳥肌が立つ部分もあった。

 

でも読み終わった直後の今の感想としては、「構成の上手いラノベくらいな感じかなー」といったところですかね。会話が多く含まれているので、読みやすいのは間違いないですけど。ただ主人公の会話の返しが、一々機知に富みすぎてて、いくら読書家って設定でも、こんな会話は不可能だろと。まあフィクションにヤボなツッコミ入れんなって話ですが笑。

 

一昔前の、長澤まさみ主演の『世界の中心で愛を叫ぶ』(セカチュー)とか、確かガッキーが主演してた『赤い糸』 とかに比べたら、よっぽど構成は優れてますね。主人公の名前が、最後まで明かされないのも、何となく伏線かつ独特な表現手段になってて、現代作家っぽいなあと思わせてくれます。

 

重いテーマなのに、悲劇風にしていないのは好感が持てる。病気の描写がメインではなく、病を得た少女、そしてその子に無理矢理付き合わされる、少年の心の成長が主題ですからね。そこをテンポよく描き切り、ちょっとしたどんでん返しも盛り込み、首尾よくまとめた作者の技量はすごいと思いました。ま、リアリティを求める作品じゃないってことです。

 

『余命10年』と『君の膵臓をたべたい』。これらの二つの作品が、比べられる対象かは分かりませんが、同時期に似たテーマで(若い女性が余命宣告のうえ、亡くなる)、ページ数も同じくらいなので、あえて比較してみます。

 

『余命10年』は実話 ↔ 『キミスイ』は創作

『余命10年』主人公は大学から社会人 ↔『キミスイ』は女子高生

『余命10年』は10年程度の話 ↔『キミスイ』は4ヶ月

『余命10年』は主人公視点 ↔ 『キミスイ』は主人公の友人視点

 

こんなところかな。

両方の特徴的なところは、病名が特に明かされないところです。『余命10年』の病名は、実話なので類推される病名もありますが、『キミスイ』に関しては、1型糖尿病っぽい感じもあるものの、特に余命宣告される類いの病気ではないようなので。なぜ“膵臓”を選んだのかはナゾですが、インパクトを与えられるのであれば、別にどの臓器でも良かったのかも知れませんね笑。

 

もの凄くオススメってわけじゃないけど、読みやすくまとまっていて、とても優秀な作品だと思います。自分は特に泣かなかったですが。

 

 

『余命10年』の書評は、下の記事から↓

bookblog.hatenablog.com

リベンジポルノ画像を流出させる人間の精神性について

一昔前から世間を賑わせている、リベンジポルノ画像の流出などの問題についてですが、自分は芸能人などの画像とか見ると、「おお、すげーな。あの娘がこんな…!」ぐらいな感想しかありませんでした(HKTの指原莉乃とか、古くは奥菜恵とか)。

 

目次

 

通信環境の拡充、個人化

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インターネットの発展やSNSの隆盛によって、こうした被害が一般人に及ぶに至り、昨今では、“裸撮らせちゃダメ!絶対!”みたいな注意が、特に低年齢層向けに発信されてます。

 

まぁそうした注意喚起も大事だとは思うんですが、写真なんてある意味防ぎようがないじゃないですか。撮らせてあげるのを止めても、機器も小型化してるし、いつ撮られてるかなんて分かりゃしない。

 

ので、やはり気になるのはココだ。

手に入れた写真で、一人楽しむのはまだ分かる(盗撮はダメですよ)。

なぜわざわざバラまくんだ?

この歪んだ精神が、理解しがたいですよね。

 

恋愛感情のもつれ

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リベンジというくらいなので、大方フラれた腹いせといったところだろうか(Winnyみたいなソフトで、意図せずに流出ししまったものなどを除いて)。

そりゃよく分からん理由でフラれたりしたら、腹も立つし、落ち込むこともあるだろう。でも、恋愛ってそんなもんじゃん。ある程度、時間が経過したら、よし次!ってなるのが、通常だと思うんですよね。手元にそんな写真があったとしても、バラまいてやれとか、全く思わん。一人で楽しみます。

 

さて、ではどんな人間がリベンジしちゃうのか。

それはやっぱり、プライドの高いヤツなんでしょうね。しかも男。俺がフラれるなんてオカしい、みたいな。理解できないみたいな。

 

でもさ、先程も述べた通り、恋愛なんて水物で、理屈や理由なんて別にないんですよね。しかも女性は感情的。一旦思い込んだら、なかなか思い直すことはできないんですよね。結婚くらい別れるハードルがあれば別だが、恋愛なんて特にね。この辺りの感情VS理性の辺りも、リベンジするのが男だけな理由の一つかも知れない(男のそんな写真に価値がないってのもそうだが笑)。

 

まとめ

さて、ここらで結論だ。

ではリベンジをガードするには、どうしたらよいか。

それは、プライドの高すぎるヤツとか、承認欲求が強過ぎる輩とは、そもそも付き合わないことっ!!笑

 

うん、全然異論は認めるよ。皆様、ご意見くださいね♪

 

『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ

読み終わった直後の、素直な感想を一言で言えば、“気持ち悪い“ですね。細かな心理描写が続くので、「久しぶりに文学読んでるなぁ」という感じが最初はしていたのですが。

 

臓器移植用のクローンとして育てられている子ども達の、一見“普通っぽい“学校生活も不気味だし、自分達の置かれている状況を、子供ながらに少ない情報で類推していく様(しかも的外れだったりする)が、読んでいてもどかしい。そこに教育者として関わっている大人達も、その異様さを受容しきれていない。

 

ところがたまたま手元に、カズオ・イシグロが本作品についてインタビューを受けた本を持っていたので、それを参照すると、少しは合点の行くところもあった。

 

本書は誰にでもかつてはあった、“子供時代”をメタファーとしているとのこと。子供に対して、大人はその成長段階に応じて、注意深く情報を出し入れしている。幼児にいきなりお酒や性的な話や、資産運用の話はしないですもんね。また、社会も必要以上に刺激的な情報に対しては、例えばその場所を立ち入り禁止にしたり、ある程度のフィルタリングをかけたりする。

 

『わたしを離さないで』の、クローンの子供たちも、情操上必要な教育を受けながらも、一般社会とは注意深く切り離された状況で、宿舎に住まい、学校生活を送っている。クローンなので、いわゆる“親”はいないわけで...(完全に遺伝子の一致した“親”はいるのだが、会うことはない。自分の臓器のストックですからね)。

 

完全に情報遮断しているわけではないが、一定以上興味を持たないように仕向けられている。知ろうとしすぎると、ヘールシャム(作中のクローン達の学校)の教師達に動揺が広がる。子供に、見てはならないものを、見られてしまった時のように。

 

読み手を選ぶ作品ですね。自分は作者のインタビュー内容を見るまでは、全く意味が分かりませんでした。余談ですが、この閉鎖された状況で、ある意味、“飼育”された状況を描いている点において、現在週刊少年ジャンプで掲載されている『約束のネバーランド』を彷彿とさせました。

『ネバラン』では、その環境に気づいた主人公の子供達の、“脱出劇”が描かれますが、イシグロ氏は、“脱出”は最初に思い付く選択であり、全く考慮に入れる気はなかったと。それよりも、〈状況を受け入れてしまう人間〉に関心があったとのことです。うーん、やはり常人の視点ではないですね。『ネバラン』の主人公たちが、状況を〈受け入れて〉しまっていたら、少年マンガ誌では掲載できなかったでしょうね笑。