ザ本ブログ

読書をメインに。他、雑記などをアップしていきます。

君の膵臓をたべたい(キミスイ) / 住野よる 〈双葉文庫〉

本のタイトルをよく目にして気になっていたので、読んでみました。1年ほど前に、小坂流加の『余命10年』を読んでいたのですが、それに似ているテイストかなと。

 

元々自分は人の死生観とか、哲学的なテーマが好きなので、続きが気になって一気に読んでしまいましたね。時々、鳥肌が立つ部分もあった。

 

でも読み終わった直後の今の感想としては、「構成の上手いラノベくらいな感じかなー」といったところですかね。会話が多く含まれているので、読みやすいのは間違いないですけど。ただ主人公の会話の返しが、一々機知に富みすぎてて、いくら読書家って設定でも、こんな会話は不可能だろと。まあフィクションにヤボなツッコミ入れんなって話ですが笑。

 

一昔前の、長澤まさみ主演の『世界の中心で愛を叫ぶ』(セカチュー)とか、確かガッキーが主演してた『赤い糸』 とかに比べたら、よっぽど構成は優れてますね。主人公の名前が、最後まで明かされないのも、何となく伏線かつ独特な表現手段になってて、現代作家っぽいなあと思わせてくれます。

 

重いテーマなのに、悲劇風にしていないのは好感が持てる。病気の描写がメインではなく、病を得た少女、そしてその子に無理矢理付き合わされる、少年の心の成長が主題ですからね。そこをテンポよく描き切り、ちょっとしたどんでん返しも盛り込み、首尾よくまとめた作者の技量はすごいと思いました。ま、リアリティを求める作品じゃないってことです。

 

『余命10年』と『君の膵臓をたべたい』。これらの二つの作品が、比べられる対象かは分かりませんが、同時期に似たテーマで(若い女性が余命宣告のうえ、亡くなる)、ページ数も同じくらいなので、あえて比較してみます。

 

『余命10年』は実話 ↔ 『キミスイ』は創作

『余命10年』主人公は大学から社会人 ↔『キミスイ』は女子高生

『余命10年』は10年程度の話 ↔『キミスイ』は4ヶ月

『余命10年』は主人公視点 ↔ 『キミスイ』は主人公の友人視点

 

こんなところかな。

両方の特徴的なところは、病名が特に明かされないところです。『余命10年』の病名は、実話なので類推される病名もありますが、『キミスイ』に関しては、1型糖尿病っぽい感じもあるものの、特に余命宣告される類いの病気ではないようなので。なぜ“膵臓”を選んだのかはナゾですが、インパクトを与えられるのであれば、別にどの臓器でも良かったのかも知れませんね笑。

 

もの凄くオススメってわけじゃないけど、読みやすくまとまっていて、とても優秀な作品だと思います。自分は特に泣かなかったですが。

 

 

『余命10年』の書評は、下の記事から↓

bookblog.hatenablog.com

『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ

読み終わった直後の、素直な感想を一言で言えば、“気持ち悪い“ですね。細かな心理描写が続くので、「久しぶりに文学読んでるなぁ」という感じが最初はしていたのですが。

 

臓器移植用のクローンとして育てられている子ども達の、一見“普通っぽい“学校生活も不気味だし、自分達の置かれている状況を、子供ながらに少ない情報で類推していく様(しかも的外れだったりする)が、読んでいてもどかしい。そこに教育者として関わっている大人達も、その異様さを受容しきれていない。

 

ところがたまたま手元に、カズオ・イシグロが本作品についてインタビューを受けた本を持っていたので、それを参照すると、少しは合点の行くところもあった。

 

本書は誰にでもかつてはあった、“子供時代”をメタファーとしているとのこと。子供に対して、大人はその成長段階に応じて、注意深く情報を出し入れしている。幼児にいきなりお酒や性的な話や、資産運用の話はしないですもんね。また、社会も必要以上に刺激的な情報に対しては、例えばその場所を立ち入り禁止にしたり、ある程度のフィルタリングをかけたりする。

 

『わたしを離さないで』の、クローンの子供たちも、情操上必要な教育を受けながらも、一般社会とは注意深く切り離された状況で、宿舎に住まい、学校生活を送っている。クローンなので、いわゆる“親”はいないわけで...(完全に遺伝子の一致した“親”はいるのだが、会うことはない。自分の臓器のストックですからね)。

 

完全に情報遮断しているわけではないが、一定以上興味を持たないように仕向けられている。知ろうとしすぎると、ヘールシャム(作中のクローン達の学校)の教師達に動揺が広がる。子供に、見てはならないものを、見られてしまった時のように。

 

読み手を選ぶ作品ですね。自分は作者のインタビュー内容を見るまでは、全く意味が分かりませんでした。余談ですが、この閉鎖された状況で、ある意味、“飼育”された状況を描いている点において、現在週刊少年ジャンプで掲載されている『約束のネバーランド』を彷彿とさせました。

『ネバラン』では、その環境に気づいた主人公の子供達の、“脱出劇”が描かれますが、イシグロ氏は、“脱出”は最初に思い付く選択であり、全く考慮に入れる気はなかったと。それよりも、〈状況を受け入れてしまう人間〉に関心があったとのことです。うーん、やはり常人の視点ではないですね。『ネバラン』の主人公たちが、状況を〈受け入れて〉しまっていたら、少年マンガ誌では掲載できなかったでしょうね笑。

名画座っていいものなんですか?映画好きの方に聞きたい。  キネマの神様 \ 原田マハ

自分は映画はよく見るんですが、映画館はほとんど行きません。まずは値段が高すぎる。と、人混みが嫌い。あと2時間座ってるのが苦手。ので、家でDVDでの鑑賞がメインになってしまいますね。皆さんはどうです?真の映画好きからしたら、有り得ないんでしょうが。。

 

一番泣いたのは『犬と私の10の約束』(犬大好き)。笑ったのが『俺たちフィギュアスケーター』。キュン死しそうになったのが『ローマの休日』(ヘプバーン可愛すぎ)。最近ハッとしたのは『言の葉の庭』、『シン・ゴジラ』、『愛を読む人』。後味悪いけど忘れられない『永久の語らい』、『3分間のピアニスト』。何か好きなのは『プリシラ』(シャーリーンいいよね)。ジブリは大体好き(ゲドは酷かったが)。『スターウォーズ』が、最近ようやく楽しめるようになった。

このラインナップがどういう傾向なのかは知らない。ミーハーなんでしょうね。

 

本書は、古き良き名画座と、映画雑誌を復興させようというもの。何か人物の掘り下げがイマイチで、自分はあまり入り込めなかった。。名画座のシブい描写があるわけでもなく、良さが分からない。最後はネットの力で復活!ってのも、若い世代受けになるのかどうか。どうにも中途半端に感じてしまった一作。今度は代表作の『カフーを待ちわびて』を読んでみようかな。

 

仕事としての芸人を知る上で、一読の価値あり  火花 /  又吉 直樹

言わずと知れた、芸人ピース又吉の、芥川賞受賞作。

本当に、ちゃんと文学してましたね..。他に大変な仕事をしながら、このクオリティは、素直にすごいと思います。この感性を持ちながら、芸能界でやっていくというのは、大変なメンタルの強さが必要かと。サッカーもかなりのレベルでやっていたようなので、そちらでも鍛えられたんですかね。

 

内容は、個人としては琴線に触れる部分はありませんでした(笑)。ただ、芸人で身を立てていくという過程を、詳細に語ってくれるので、お仕事小説としての価値がまずあると思います。

 

成功話ではなく、売れそうで売れない芸人の一喜一憂する辺りがリアル。そうゆう先輩や後輩を多数見てきて、自分も売れなかったかもしれない姿に、心を重ねて描いたんでしょうね。そして夢敗れた後も、現実に折り合いを付け、たくましく生きていく姿も‥。

 

強くおすすめするわけではないのですが、又吉さんとは、本当にマジメな方なのだなと、感じました。

悩まないってことは、人生をただ流してるだけだろ? : 人はなんで生きるか / トルストイ

 誰にでも、生きることとか哲学的な問題に悩んだことってあると思うんですが(ってか全くない人って話がつまらない)、自分にも20代半ばくらいに、そんな時期がありました。その頃は、人からの悩み相談を受けることも多かったような。30歳くらいを境に、とんと来なくなりましたけどね。初めての就職とか、婚活とか、とにかく初の自立でみな不安定になるのでしょう。

 

 自分は就職したものの、2年たたずに辞めてしまい、実家に戻ってぶらぶらしてました。飯は食わせてくれるので、切迫感はないが、性格上焦燥感もはないけど、なんか悶々してましたね。その頃はたまに友達と飲む以外は、部屋に籠って、宗教書とか哲学書などを読みふけってました。いいご身分だ。

 

 “なぜ生きるのか?”などと大層な命題の答えに、本を読むだけで、到達できるはずもない。答えは一人一人違うかも知れないし、そんなものはないかも知れない。仮にあったとしても、それは行動や体感を伴うもののはずだ。

 

 そんな時、たまたまトルストイの、『人はなんで生きるか』を読んだのです。タイトルに惹かれたわけでもなく、薄くて持ち運びやすそうだとの理由で、何となく読み始めました。表題作を、それほどの感慨もなく読み終え、家のトイレに入っている時にふと、《人は人のために生きる》というフレーズが、頭に浮かびました。

 

 それを宗教的体験と呼ぶのが相応しいかは分かりませんが(今日に至るまで自分は無宗教ですし)、その瞬間、「あ、これでいいじゃん」と思い、それまで思い煩ってた小さな悩みや疑問が、氷解してしまったのです。以降10年以上経ちますが、これと言って悩んだことがありません。迷ったら、人のためになる方、あるいは人が楽しんでくれる方を、選べばいいのですから。

 

 もちろん、何が人のためになるかも、考え方一つで変わってしまいます。経験不足により、独善的になってしまうこともあるでしょう。しかし、間違えたと思ったら、直せばいいのです。大事なのは、その時その時、何が人ためになるかを問い続ける心なのです。